内山 貞文氏が語る
「日本庭園の”心”を伝える懸け橋に」

緑豊かな米国オレゴン州に海外で最も本格的といわれる日本庭園がある。年間30万人が訪れるポートランド日本庭園だ。その庭を統括する内山貞文氏が来日したのを機に、米国における日本庭園の変遷や新たな可能性などを語っていただいた。さらに今回の来日のもう一つの目的――東日本大震災の被災地からオレゴン沖に流れ着いた鳥居の返還をめぐる、日米の交流や人のつながりについても聞いた。

[2014年11月]

内山 貞文(うちやま・さだふみ)/米国ポートランド日本庭園 ガーデン・キュレーター
1955年福岡県生まれ。明治後期から造園業を営む家に生まれ、幼少の頃より職人の手ほどきを受ける。タンザニア、イエメンでの開発協力を経て1988年に渡米し、イリノイ大学ランドスケープアーキテクト学士号および修士号を取得。日米両国での造園経験を生かし、私邸から公的プロジェクトまで幅広い分野を手掛ける。

 
―ポートランド日本庭園は、海外にありながら大変本格的な日本庭園だそうですね。

1967年に開園し、約6600坪の敷地に伝統的な平庭や枯山水など、様式の異なる5つの庭園を配しています。日本の歳時・文化イベントやアート展、ワークショップなども開催しており、今では年間延べ30万人近くが来園しています。僕は2008年から技術主監として、庭園の維持管理から現地スタッフの教育、地元の方々に日本庭園・文化を理解してもらうための啓蒙活動などを行っています。

―日本庭園はアメリカでどのように受け入れられているのでしょうか。

そもそも日本庭園がアメリカで紹介されたのは120年以上も前。ちょうど1893年にシカゴでコロンビア万国博覧会が開かれた頃のことです。当時は日本文化を伝えるための一つの外交手段でした。博覧会をきっかけに企業家たちが個人の邸宅に日本庭園を造り、その後戦争を経て日米間で多数の姉妹都市協定が結ばれると、市民友好のシンボルとしての日本庭園が造られるようになりました。僕の知る限り、今では北米に250以上もの公共日本庭園があります。庭園にはかなりの維持費がかかりますので、決して単なる興味本位でできるものではありません。これほどの数が継承されてきたことに、日本庭園がアメリカでいかに深く受容されているかを感じます。


©Stephen Bridges


©David Cobb


©David Cobb
 
―日本庭園というと様式や意匠、背景にある思想などが複雑で、日本人にさえ分かりにくい印象があります。

たしかに昇華された芸術というのは見えにくいものですが、説明できないほどのものではないと僕は思っています。本来は「物を大切にしなさい」とか「きれいにしなさい」といった日本人が大事にしている日常の美学が、芸術を通して「 侘 び・さび 」や「幽玄」などの高尚な価値観になっていくわけです。ですから、最初から「幽玄」などと上段から構えず、もっと低いところから日々の経験を通して語ることが重要です。

もちろん、風土の違いは大いにあります。つまり育った環境からおのずと生まれる心持ちです。例えば、アメリカで「花鳥風月」という感覚が理解されるには、2~3世代はかかるでしょう。そう言うと非常に長く聞こえますが、僕は日本庭園を千年の単位で捉えているんです。考えてみれば、禅宗などは今でこそ日本が本家のような顔をしているけれど、もとは中国やインドから伝えられたもの。千年以上かかってようやく日本で花開いたわけです。

日本庭園も約1200年前の平安時代に日本で生まれ、今日まで大事に育てられてきましたが、それはたまたま発祥の地が日本だというだけで、本来は世界に貢献するために生まれてきたのかもしれない。ですから重要なのは、日本人による日本人のための庭園ではなく、日本庭園が内包する、国境や人種を越えた普遍性に注目することなんです。

―文化を特定の国や時代の枠にとどめず、長い時間軸・空間軸の中で捉える必要があると?

日本庭園を見て「きれいだな」「面白いな」と感じる部分はもちろんあるでしょう。でもそれはあくまで入り口で、僕はその延長線上にもっと本質的で普遍的なものがあると考えています。例えば僕の妻はヨガをやっているのですが、入り口こそ違えど、ヨガと庭園は同じ方向を向いていると思うんです。

だとすると、その方向を向いている人たちはアメリカに何百万人もいる。その意味で日本庭園は「物」ではなく「心」なんです。皆何かを求めていて、たまたまそれがヨガや座禅であり、庭なのではないかと。今のような時代なら、それは自然から感じる安らぎや癒やしかもしれない。時代によって庭に求められるものは違いますが、千年に亘って続いてきた日本庭園という概念・様式には何かがあるはずです。

―内山さんはアメリカ人の日本庭園専門家の育成もなさっているそうですが、日本での育成との違いはありますか。

庭師として一通りのことは教えます。ただ、難しいのは「心」の部分。燈籠や石は海外に持っていけるし、技も移転できますが、育った場所からしみ込んでいるものは持っていけません。心は風土なんです。そこで現地の庭師たちには、風土に変わる経験として、まずは茶道や華道といった伝統文化を総合的に体験し、全体の輪郭を感じてもらいます。心が動かないと手も動きませんから。それと同時に、言葉できちんと説明するのも大事。職人気質の「背中で語る」は海外では通用しません。それは僕がタンザニアやイエメンで学んだことです。


©Jonathan Ley
 
―なぜタンザニアやイエメンへ?

高校を出る時には、家業は継ぐまいと決めていたんです(笑)。10歳の頃から庭の手伝いを始め、すでに一通りのことは習得していました。ただ当時は、庭師などよりカッコいい仕事がたくさんありましたから。家を出る大義名分が欲しくて、青年海外協力隊でタンザニアへ行ったんです。タンザニアでは薪採取を目的とした森林伐採が社会問題になっていて、ドイツの専門家とともに植林活動に取り組みました。その延長で次は国際協力事業団(現JICA)の専門家としてイエメンへ逃避行。しかし海外に出て気付かされたのは、いかに自分が勉強不足だったかということです。世界のことを全然知らなかった。

それで32歳の時、本格的に造園を学ぶため米国イリノイ大学に進学しました。最初の2年間は地獄でしたよ(笑)。大学の先生方は僕が庭師の3代目と知って、日本庭園のことをあれこれ尋ねてくるんです。しかしいざ説明しようとすると答えられない。職人として修行は積んでいても、背景にある意味や歴史を分かっていなかったんですね。いかに日本庭園が深いかをアメリカで教えられ、そこからずいぶん勉強しました。

―内山さんは現在、日米の庭園間の交流を活性化させる取り組みにも注力しているそうですね。

はい。アメリカへ渡って約25年、専門家の不足から維持・管 理 が 行 き届 か なくなった 日 本 庭 園 を 数 多く見て きました。そこで、日米の庭園間をつなぐ大きなパイプ役となる組織を5年がかりで準備し、2012年にNorth American Japanese Garden Association(北米日本庭園協会)を立ち上げました。

今は次の段階として、日本庭園や文化を総合的に学べる機関International Institute for Japanese Garden Arts and Cultureをポートランド日本庭園内に新設しようとしています。ここで学んだあと、さらに深く知りたい人にはわれわれのネットワークを使って日本へ留学できる仕組みを作ります。日本とつながることのできる情報発信拠点としてこの機関を旗揚げし、異文化交流から専門家の育成まで幅広く取り組んでいく予定です。

―今回の来日は、東日本大震災の津波で流され、オレゴン沖に漂着した神社の鳥居をめぐる相談のためと伺いました。

震災から丸2年がたった2013年3月、ポートランドの海岸に2本の鳥居が流れ着き、現地で大きな話題となりました。1本目が発見された時、実は僕がリアルタイムで写真を確 認したんです。たまたま僕を訪ねて庭園に来ていた友人のもとに、1通のメールと写真が届いた。友人に「これは何だ?」と尋ねられ、見るとすぐに鳥居の笠木(鳥居上部の横木)だと分かりました。

その1カ月後、今度はある農家の夫婦が2本目の笠木を見つけました。たまたまご主人が日本へ留学した経験があり、それが鳥居の一部だとピンときたんですね。こちらの笠木には額束(がくづか)と呼ばれる部分が残っていて、奉納した方の名前が記されていた。「きっと誰かが大切にしていたものに違いない」――そう考えたオレゴン州の公園局からの依頼で、持ち主を探す旅が始まりました。



保管されることが決まり、慎重に回収される笠木。

―捜索の手掛かりはあったのでしょうか。

名前や奉納の年など、わずかな情報しかありませんでした。まずは陸前高田市と気仙沼市を訪ね、タクシー運転手から道ゆく人まで片っ端から聞いて回った。それがNHKのニュースで取り上げられたことで、さまざまな方が調査協力を申し出てくれました。しかし岩手・宮城・福島の3県では手掛かりなし 。最後に探した青森・八戸市でようやく持ち主の方々にたどり着いたんです。

そのお一人、漁師の高橋利巳(たかはし・としみ)さんの鳥居は、大漁祈願のために太平洋に向かって建立されたものでした。震災直後、高橋さんは鳥居に漁船が当たって倒れ、海に流されていく様子を見ていたそうです。それが2年後、太平洋を渡ってアメリカに流れ着いた。きっと何かの縁があったんですね。しかし、震災で負った心の傷は大きいはず。

まずは持ち主の方々のご意向を伺おうと、今回八戸を訪ねました。返還についてはとても恐縮されていた高橋さんですが、本音を聞くとやはり帰ってきてほしいとのこと。アメリカではすでに複数の国際輸送関係者から返還協力の申し出を受けており、2015年中には鳥居が2本そろって帰郷するか、少なくともその目途が立っていることと期待しています。


鳥居が流された八戸市・大久喜漁港の神社。

すべては見も知らぬ場所から来たものを大事にしてくれたオレゴンの人たち、そして捜索に力を貸してくれた日本の人たち――彼らがいたからこそ実現できたことです。鳥居であれ日本庭園であれ、重要なのは人と人の心のつながり。今後も日米の懸け橋となり、その絆を強く太く育んでいきたいと思っています。
 


このインタビューは2014年11月27日に行われたものです。

聞き手:笹山 祐子(国際文化会館企画部)
インタビュー撮影:松﨑 信智
©2019 International House of Japan


その他のインタビュー・対談記事はこちらへ。