(対談)多和田 葉子氏 x 川上 未映子氏
「母語の内へ、外へ―表現としての言葉の可能性」

3月2~6日に開催される東京国際文芸フェスティバル(主催 日本財団)に先駆け、2015年11月16日、多和田葉子さんと川上未映子さんによる公開対談がアイハウスで開催された。著作が多言語に翻訳され、世界中に読者を持つお二人。作家が国境や言語を超えて活躍する現代ならではの言葉の可能性を、「翻訳」や「言語」、「身体性」などのキーワードを軸に語り合った。

川上未映子さんと多和田葉子さん(アイハウス図書室にて)

多和田 葉子(たわだ・ようこ)/小説家・詩人
ベルリン在住。早稲田大学第一文学部ロシア文学科卒、チューリッヒ大学博士課程修了(ドイツ文学)。日本語、ドイツ語で詩作、小説創作。主な作品に「犬婿入り」(芥川賞)、『雪の練習生』(野間文芸賞)、『献灯使』、『言葉と歩く日記』など。ドイツ語で書いた作品群で2005年、ゲーテ・メダル受賞。著作は多言語に翻訳されており、世界各国で朗読パフォーマンスを行っている。
川上 未映子(かわかみ・みえこ)/小説家・詩人
大阪府生まれ。「乳と卵」で芥川賞受賞。主な小説作品に『ヘヴン』(芸術選奨文部科学大臣新人賞、紫式部文学賞)、『愛の夢とか』(谷崎潤一郎賞)、『あこがれ』など。詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(中原中也賞)、『水瓶』(高見順賞)で各賞を受賞。著作は多言語に翻訳され、世界でも現代日本を代表する作家の一人として注目を集めている。

 

他者の文体に触れる
日本語をベースに、日常的にドイツ語を使う多和田葉子さんと、標準語と大阪弁を使い分ける川上未映子さん。両者とも、平仮名や擬音語を多用するなど、言語に対して挑戦的で、かつ心地良くリズミカルな文体を持つ作品を書いている。普段、人が何気なく聞き流してしまうような言葉にも意識的で、作品には言葉に対する探究心や独特の解釈がふんだんに表れている。

最近、いつもの創作とは別の“翻訳”というベクトルで文学作品に向き合ったお二人。多和田さんはカフカ「変身」の新訳を、川上さんは樋口一葉「たけくらべ」の現代語訳を手がけた。他の作家の文章を自由に変えるわけにはいかないため、カフカを訳す過程では居心地の悪さや苦しさも感じたと多和田さんは語る。「変身」の新訳では原文の持つ「6本の足がゴソゴソ動いて、収拾がつかない虫」のような文体を感じながら、それに身を任せて訳したと言う。

川上さんは、「たけくらべ」の冒頭部分には句点が一切ない長文が続き、凝縮されたテンションを感じるが、その後はムードが変化していくことに触れ、原作品の持つ「テンションの波」を現代語で再現するのに苦労したと明かした。そうした難しさを感じながらも、今回の翻訳経験を通して、いわゆる文体とは「です・ます」調などの形式を指すのではなく、作品全体を通して読むことで感じられるムードやテンション、つまり「バイオリズム」を指すのではないかと気づいたと川上さんは話す。「これが人の文体に触れるということかと、実感しました」。

“変身”するテキスト
多和田さんは、日本語で書かれた自身の作品を自らドイツ語に翻訳した経験もある。『雪の練習生』を訳した際は、自分の書いたものでありながら、テキストが「ワイルドな動物みたい」に感じられて思い通りに扱えない難しさがあったという。この小説は実は語り手がシロクマなのだが、半ばその正体は明かされないまま進展する。しかし、ドイツ語の場合、文法上どうしても主語を必要とするため、話者が誰かを隠そうとすると違和感のある文章になってしまう。それだけではない。ドイツ語では、動物と人間の手を示す単語が異なるので、話者の正体が原文より早く明らかになってしまうのだ。そうした困難を挙げながらも多和田さんは、翻訳によって失われるものばかりではないと言う。「何か違うものが入って、別のものが消えていく、まさしくテキストが変身していくのが翻訳」なのだ。

一方、川上さんは「たけくらべ」はすでに「最高に切り詰めた美しい文章」になっているので、それを翻訳する時には言葉を付け足していくしかなかったと語る。ただ、好き勝手に書き足したわけ ではなく、言い回しを増やしたり、行間から見えてくるものを現代語訳に反映させたと言う。

「母語」は存在するのか?
多和田さんの創作や翻訳に対する考え方に少なからず影響を受けてきたという川上さん。「たけくらべ」の現代語訳に取り組む勇気を得たのも「人は母語で書かれたものを読んでいる時でも、頭の中で常に翻訳している」という多和田さんの言葉に後押しされてのことだった。

この「母語」というテーマについて、多和田さんはこれまでもエッセーなどで言及してきたが、最近は母語など存在しないのではないかと考え始めたそうだ。母親が関西弁なのに、子供は標準語を喋っていたりする家庭もあるし、完全な母語というものはなく、それぞれの人にとっての母語も時と共に変化していくものだからだ。

翻訳のために新語が生まれる
川上さんの初期の作品「乳と卵」は大阪弁で書かれ、読点で区切られて改行なく延々と続く文体が特徴的な作品だ。すでにフランス語や中国語などの多言語版が出版されているが、訳しようのない表現も多かったはず。これについて川上さんは、英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀氏が、翻訳不可能と言われたジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を訳すために、新しい日本語を作ったという例に触れ、自分のテキストも訳された時にそうでありたいし、また、訳しきれない日本語が海を渡ることにも意味があると思うと話した。

多和田さんもまた、訳せない日本語で書くことに大きな意味を見いだす。自身が行う朗読パフォーマンスのテキストは日本語として意味を成さず、翻訳できそうにない言葉がたびたび登場する。しかし多和田さんは、言葉通りには訳せないとしても、朗読されたこと、書かれたことを違う言葉で語ることはできるし、対応するテキストを作ることもできると言う。たとえ分からない言語でも、単なる物音を読み聞きするのとは違い、読み手や聞き手は、そこに言語体系があることを察知して、脳が活性化する。そうすると自分の母語も「意味を聞かない(追わない)で聞く」という言語体験ができるようになって良いのだと。

言語の持つ「他質性」
翻訳文化が発達して、多くの作家が国境や言語を超えて活躍する昨今は、翻訳されることを意識して創作する作家が出てきても不思議ではない。だが多和田さんは、作品を書く時に他言語を意識する余裕はほとんどないという。唯一『旅をする裸の目』は、ハッキリと意識してドイツ語と日本語で同時に書き、どちらの言語でも成立する作品を目指したそうだが、そのように試みても、一つの言語で書いている時はそこに集中 せざるを得なかった。そんな多和田さんは今、たとえ特定の言語で書いていたとしても、その中には一つの言語だけではない「他質性」があると感じている。例えば、川上さんの『わたくし率 イン 歯ー、または世界』の「率」は中国から入ったものだろうし、「イン」は一体何語だろうというように、日本語で書いていても、そこにはいろいろな言語が存在する。結局はその「他質性みたいなものをどれだけ表面にぼこぼこ出していけるか 」が重要なのだと多和田さんは言う。そして、ここで創作や文学の話をしていても、自然と「翻訳」が話の入り口となっているように、「文学とは何か」を考える時に思い浮かぶことと、翻訳について考える時に思い浮かぶことには多くの共通点があり、文学の可能性を考えることにつながると指摘した。


 
川上さんも、翻訳や創作、文学について話すことで小説が書きやすくなると話す。外国小説を翻訳した日本語と、日本語の小説で使われる日本語は、同じ日本語なのに少し異なる空気感がある。「オリジナルのテキストが存在することが前提としての日本語」という感じをどうしても受けてしまうのだそうだ。また外国小説の翻訳を読んでいると、今読んでいるものが全てではないかもしれないという不安を感じて、何かまだ余地があるような気がしてくる。そして、本当はそこには何が書かれているのか知ろうと、より能動的になるのだと川上さんは言う。「圧倒的に書きたくなるのは、不思議と外国小説を読んだ時なんですよね」。

世界と身体とを接続する
対談の冒頭で、文体はバイオリズムだという話が出たが、終盤には話が身体性に及んだ。川上さんは初めて小説の執筆依頼を受けた時、「60枚ほどの枚数を書く」ということを身体で実感するために、多和田さんの「ゴットハルト鉄道」を手書きで写したエピソードを披露した。そこであらためて、身体性について考えることになったという。川上さんいわく、多和田さんの小説は常に自分の身体でない外界に、ある種の身体性を発見していく感じがする。遠くにある世界と、ここにある身体との関係を言葉にすることで、人がどこまで遠くのものの中に身体性を発見できるのかを試みている、と作品への印象を語った。

一方で川上さん自身は、旅などせずに、ずっと布団に入って変わらない窓からの風景を見ているのが好きだという。「冷たい布団に入ると、だんだん体温が布団に馴染んでいくように、世界の質感と自分の質感が馴染んでいく感じを覚えるんです。目の前にある動かない一個の身体の中に、外界を発見していくというか。例えば自分のおなかの中に一つの街があるように感じ始めたり。そういう感覚が心地よいんです。」それを聞いた多和田さんは、自分と近い身体を描くと、どうしても痛みを扱うことになって、それが嫌だから自分は自らの身体の中に入っていくのではなく、外界である風景の中に自分の口や目があるというような設定にしていると明かした。

世界各国を飛び回る多和田さんと、じっとしているのが好きな川上さんでは一見対極的だが、言葉を通じて身体を遠い世界に接続するという意味では同じかもしれない。多和田さんもそこに共通点を見いだす。寝台列車に乗った時の、外の風景は変わっているのに、自分はじっとして変わっていないという感覚が好きなのだそうだ。「旅をしていても、身体ごと連れて移動しているわけだから、移動していないのも同じなのかもしれない。」川上さんもまた多和田さんに共感しながら、自分は逆に一カ所でじっとしているのだけれど、「身体的に移動しているのと同じことが自分の中で起きている」と感じることがあると答えた。

終わりに
対談後は、両氏それぞれが選んだ自身の詩の朗読が行われた。川上さんは「戦争花嫁」(詩集『水瓶』収録)という少女の意識と身体感覚をつづった詩を、多和田さんはダイナミックでユーモラスな言葉遊びが際立つ詩を披露した。二人が紡ぐ言葉が響く会場は、静かな熱で包まれた。

 


執筆・編集:辛島デイヴィッド(モデレーター)/樋口 武志/小澤 身和子(国際文化会館企画部)
撮影:サトウ ノブタカ
©2019 International House of Japan


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