栗栖 良依氏が語る
「アートで”垣根”を超えていく」

障害のある人とない人が共創することで、もっと面白いクリエーションができるはず―― 自らも足に障害を抱えながら、障害者とアート、そして社会の間のバリアを取り払うべく、精力的に活動している栗栖良依氏。障害者と多分野のプロフェッショナルによる現代アートの国際展「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」や、リオ・パラリンピック旗引き継ぎ式の実績を踏まえ、東京五輪・パラリンピック開閉会式の総合プランニングチームに参画している栗栖氏に、共創のためのさまざまな取り組みを伺った。

[2018年9月]

栗栖 良依(くりす・よしえ)/NPOスローレーベル代表 
1977年東京生まれ。特定非営利活動法人スローレーベルのディレクター。東京造形大学卒業後、イタリアのドムスアカデミーにてビジネスデザイン修士号取得。2010年に骨肉腫を発症、右下肢機能全廃に。翌年社会復帰を果たし、国内外で活躍するアーティストと障害者をつなぐ市民参加型ものづくり「スローレーベル」を設立。14年と17年には「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」総合ディレクター、16年にはリオ・パラリンピックのステージアドバイザーを務める。東京2020総合チーム クリエイティブ・ディレクター。2016年、第65回横浜文化賞「文化・芸術奨励賞」受賞。

 
―五輪の式典を演出するのが、10代の頃からの夢だったとお聞きしました。

よく言われるんですが、実際は少し違うんです。確かに子どもの頃から国際平和と舞台芸術の分野に関心がありました。二つをかけ合わせた仕事をしてみたいと漠然と思っていたときに偶然、リレハンメル五輪の開会式をテレビで見て、多様な背景を持つ子どもからお年寄りまで3,000人くらいの人たちが、一堂に会して「平和」のメッセージを表現している姿に感銘を受けたんです。自分もこんな舞台をやりたいと思うようになり、10代、20代はその夢にすべてを捧げてきました。

ところが2010年、33歳のときに右ひざに悪性線維性組織球腫というがんの一種が見つかったんです。割と深刻な状態でしたから、それまでの夢や仕事はすべて一度リセットせざるを得なかった。そこから人生観ががらりと変わりました。夢ばかり追って生きるよりも、目の前の瞬間、瞬間を大切にしていこうと。障害者として社会復帰してからは、自分にできることを一つずつこなしていく毎日でした。そうした積み上げの中で、気が付いたら元の場所に戻っていたんですよね。だから正直「夢が叶った!」という実感はないんです。

―病が大きな転機になったのですね。障害者として社会復帰された直後はどんな活動を?

たまたまお声掛けいただいたのが、障害のある人たちとアーティストのものづくりを支援する事業のディレクターという仕事でした。自分が障害者になったから支援したくなったのではなく、「今の私にできる仕事なら何でもやらせてもらいます」という気持ちでした。でもいざやり始めると、それまで出会うことのなかったさまざまな障害のある人たちの日常や現実、社会的課題が見えてきた。そして「こうしたら、皆がもう少しハッピーになれるかな」と目の前の問題を一つずつ改善していくうちに、どんどんのめり込んでいったんです。

スローレーベルを設立後、ものづくりから舞台表現へと活動を広げたきっかけは、2012年のロンドン・パラリンピックでした。この大会は式典や関連の文化プログラムを含め、障害者アートの文脈でも大きな成功を収めたと言われていて、本当に多様な身体の人たちがその身体的特徴を生かしつつ、プロのアーティストとしてすごくユニークな舞台をつくっていた。それを見て「パフォーマンスでもきっと面白いことができる。しかも障害者と健常者が一緒の方が面白い」と確信したんです。そんな矢先の2014年、たまたま横浜市から企画の依頼があり、障害のある人とアーティストでつくる国際芸術祭を提案しました。

―それが「ヨコハマ・パラトリエンナーレ」ですね。どんな企画だったのですか。

初年度のパラトリでは、ロンドン・パラリンピック開会式の振付にも参加していたカンドゥーコ・ダンス・カンパニーという、多様性を目指す英国トップのダンス・カンパニーから芸術監督を招いてワークショップを開催しました。すごいチャンスだから、きっとたくさんの応募があるだろうと期待していたんです。すると、健常者の方々からは応募があったんですが、障害のある人はほとんどなくて…。おかしいなと思って、アウトリーチで障害者施設にアーティストを連れて行くと、そこでは踊ったり歌ったり、皆すごく楽しそうに参加してくれるんです。なのに、障害のない人たちと一緒にパブリックスペースでやりましょうとなった途端に誰も来なくなる。そこにすごく高いバリアがあって、それを取り除かないことにはクリエーションのスタート地点にも立てないことに気づきました。

バリアと言っても、スロープがないといった物理的なことから、情報、精神面までさまざまです。例えばイベント開催を知らせるにしても、メールでは目の見えない人や知的障害のある人には情報が届きません。メンタル面では、健常者に交じって何かをすることへの抵抗感とか、うちの子が迷惑を掛けたらどうしようとか、それまでの教育で刷り込まれてきた「同じことを同じようにする」という発想が先に立ってしまうんですね。そこで2015年から「アクセスコーディネーター」と「アカンパニスト(伴奏者)」という2種類のスペシャリストを育成して、まずは 環境づくりに注力することにしました。

―具体的にどんな役割を担うのですか。

「アクセスコーディネーター」は、障害のある人たちが 舞台に立つまでのバリアを取り除く手助けをします。情報の翻訳から道筋案内、心配する親御さんのケアまで、安心して活動に参加してもらうための環境づくりが彼らの役割です。会場に来たら、今度は共演者である「アカンパニスト」が舞台パフォーマンスの部分をサポートします。一人一人の身体の特徴を引き出したり、演出家や障害のない人との仲介に入ったり、舞台上で転びそうになったら観客には分からないように支えつつ、それを表現に落とし込むなど、パフォーマーとしての感性とコミュニケーション能力の両面が求められます。こうした専門家がいて初めて、互いの違いを生かしたクリエーションができるし、彼らのスキルが上がるほど、より重度な障害を抱えた人でも舞台に立てるようになります。


2017年のヨコハマ・パラトリエンナーレ ©Kato Hajime

―そうした取り組みを経て、リオの旗引き継ぎ式のアドバイザーに任命されたのですね。

パラリンピックの場合、出演者の障害の種類や程度、可動域が皆違いますから、パフォーマンスを面白くしようとしたら、一人一人の違いや個性をどう生かすかを考えなくてはいけないんですよね。一糸乱れぬ形で踊ることを美学とするオリンピックとは真逆の発想です。そこで、どこにどんなパフォーマーがいて、どんなレベルの表現が可能か、パラトリでの経験値があった私たちに急きょ相談が来たのだと思います。その後正式にステージアドバイザーとなり、最終的に車いすや義足の人、視覚障害の人、ダウン症の人など9名の障害者パフォーマーと、プロのダンサー6名、アカンパニスト4名をキャスティングしました。

リオへは飛行機で約36時間。障害がなくても大変な移動ですよね。しかも当時のリオは治安の悪さに加えて、水質汚染、ジカ熱を媒介する蚊の問題もあり、障害のある人たちが万全の体調であの舞台に立つのは、ものすごくハードルの高いことでした。宿泊先にしても、バスタブがある方がいい人、ない方がいい人、シャワーチェアがいい人、内臓疾患のため流動食用のお湯が不可欠な人など、必要な配慮は障害の種類や程度によってさまざま。

これらは安全管理上、確実に共有しておくべき重要な情報なんですが、障害者の側が遠慮してしまったり、スタッフ側もプライバシーに配慮するあまり、踏み込んで確認できないことがある。そこをアクセスコーディネーターたちが丁寧にヒアリングし、皆で知恵を出し合い、あの手この手で調整を重ねました。もっとやりたいことはあったけれど、限られた時間と制約の中でベストを尽くしました。何よりリオという大きな舞台でこれまでの取り組みを試せたことは幸運でしたね。

―リオでの経験をもとに始めたことはありますか。

新しい演者の発掘や専門人材の育成に加えて、現行のパフォーマーの身体機能をより高める取り組みを始めました。8分間のステージを十数人で行うだけでも大変だったのに、来る東京大会では時間も人数も格段に増える可能性があるからです。表現力と体力の両方を養うため、演出家や振付家だけでなく理学療法士や作業療法士、フィジカルトレーナーなどと共同で独自のトレーニング法を開発しました。さらにエアリアル(空中パフォーマンスの一種)を使った訓練にも挑戦すべく、ロンドン大会のトレーナーを招いて障害者への指導法を学ぶ取り組みを始めています。

―障害のあるパフォーマーを支える環境は、海外の方が進んでいる?

やはり欧米は進んでいますね。でもそれは文化・芸術レベルの高さというより、障害の有無に関わらず「個の自立」という意識が日本より高いからで、それが必然的に障害者の自立に置き換わっているのだと思います。社会の中で健常者と障害者の暮らし方や活動にさほど差がないから、芸術やスポーツを楽しむ人たちも同じ割合で存在する。分母が大きいので、当然レベルの高い人の数も違うわけです。

指導者もさまざまです。これまでにベルギーで知的障害者のサーカス集団を主宰するカトリーヌ・マジや、カンドゥーコのディレクターであるペドロ・マシャド、ロンドン開会式の芸術監督ジェニー・シーレイなどを招へいしましたが、全くアプローチが違うんです。パフォーマーのわがままも受け入れつつ力を引き出すカトリーヌに対して、ペドロはとても厳しくて特別扱いは一切なし(笑)。衝撃でしたが、指導経験の少なかった私たちにとっては、それぞれの良い所を学びながら自分たちのアプローチを探る良い機会になりました。

日本でもここ数年は、東京大会を見据えて障害者によるスポーツや文化活動が推進され、関連する法制度もできていますが、その多くが障害者施設内のレクリエーションという形にとどまっています。一流選手を擁するパラ・スポーツの世界では、予算が付いたりトレーニングセンターが設立されたりしていますが、文化・芸術の世界ではそこまで到達していません。他のアジア諸国も、経済状況や環境がかなり違うのでひとくくりにはできませんが、パフォーマーの数はあまり多くないと思います。タイやラオスなど仏教への信仰心が強い国ほど、障害は前世の報いだとの教えから強い社会的差別があるとも聞きますし、まだまだこれからではないでしょうか。

―東京大会をどんな大会にしたいですか。

障害者と健常者の出会いや協働のきっかけにできればと思いますね。障害の有無を超えて「一緒に何かをする」という実体験でしか得られないものがあります。そうした経験を通して障害のある人たちが身に着けた社会的スキルは、その後の人生の選択肢を増やすことにつながるし、健常者の人たちにとっても、日々の暮らしや仕事、地域社会の中でのヒントになるはずです。

式典の具体的なシナリオは発表されていませんが、4つの式典を一体のものとしてつなぐことが最大のチャレンジだと考えています。例えばオリンピック開閉式に障害のある人が出たり、その逆もあったり…。真の多様性やインクルージョンというのは、パラリンピックの中だけではなく、むしろスタンダードなものの中でこそ描かれるべきですから。そのコンセプトが揺らがないためにも、野村萬斎さんや振付師のMIKIKOさんはじめ、他のクリエイターの方たちが妥協することなく、安心安全で最高のパフォーマンスがつくれるよう、しっかり支えていきたいですね。

 


このインタビューは2018年9月19日に行われたものです。

聞き手:笹山 祐子(国際文化会館企画部)
インタビュー撮影:相川 健一
協力(家具):株式会社天童木工
©2019 International House of Japan


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