【新渡戸フェローとの対談】# 2「イギリスの行政改革に学ぶ」(廣瀬克哉×向山淳)(対談テキスト)

第2回 「イギリスの行政改革に学ぶ」


  • 対談
    廣瀬 克哉(行政学者、法政大学総長/新渡戸フェロー(1991-93))
    向山 淳(向山政策ラボ主宰、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ (API)主任研究員)
  • 配信日:2022年5月26日
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    *このページに掲載されている対談は、2022年3月3日に行われたZOOM対談の内容を一部編集したものです。

    はじめに

    (向山 淳 氏 以下、「向山」と記載)
    皆さんこんにちは。向山淳と申します。私は2016年に国際文化会館が実施した「新渡戸国際塾」というリーダーシップ育成塾に参加し、たくさん刺激を受けて多くの方に出会い、現在は向山政策ラボ代表、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ (API) 主任研究員をさせていただいております。
    国際文化会館は今年2022年に設立70周年を迎えます。それを機に、これまで実施した事業の中でも、特に日本の研究者の育成に重要な役割を果たした「新渡戸フェローシップ」(正式名称:社会科学国際フェローシップ)に焦点をあてて、現在各界で活躍されている元・新渡戸フェローの方々にお話を伺っていきます。どのように知的なリーダーが形作られてきたかを探り、私達の世代や、次の時代を担う方々への示唆を提供していきたいと思っています。
    二回目となります今回は、昨年(2021年)4月から法政大学の総長をされている廣瀬克哉先生にお話を伺います。廣瀬先生は、新渡戸フェローとして、1991年から1993年まで2年間ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で在外研究をされました。ご専門は行政学です。情報通信政策にも精通され、自治体の議会改革を支援するなど自治体のガバナンスにも精通しておられます。私自身、デジタル政策を含めてシンクタンクで追究していますので、今回インタビュアーの役割をさせていただき大変光栄に思っています。それでは先生よろしくお願いします。

    (廣瀬克哉氏 以下、「廣瀬」と記載)
    法政大学総長の廣瀬でございます。今日はよろしくお願いいたします。

    研究者の道に進んだ原点

    (向山)
    本日は、インテレクチュアルなリーダーがどうやって形作られてきたか、廣瀬先生のメイキング(形成過程)にも迫っていきたいと思っています。まずは、先生がどうして研究者の道を歩まれ始めたのか、その原点からお伺いできればと思います。

    (廣瀬)
    大学進学の際に政治学を学ぼうということは決めていました。いろいろなきっかけがありますが、読んでいた通信教育の添削教材の中に丸山眞男さんの文章が出てきて、そのメッセージに強いインパクトを受けたことからそうした領域で書かれたものに関心を持つようになりました。ならばそういうものが生まれてきた場所、例えば丸山眞男が現役で活動していた場所である東京大学法学部で政治学を学んでみたいということを進路として考えるようになりました。大学院に進んで研究者になろうと思ったのが、大学三年生に進む頃だったかと思います。割とお気楽な感じで、好きな本を読んで飯が食っていければ良いなという、非常にだらしないというかしょうもない動機だったと思いますけれど(笑)。結構真面目にそういうことができれば良いなという憧れを持ってその領域に入っていきました。随分甘い考えだったと後になって実感させられる場面もあったなという感じですね。

    (向山)
    最初は純粋な知的好奇心、勉学を追求していきたいという気持ちを持ってその道に入られたということですけれども、その中でも専攻・学問領域を選んでいくプロセスはどのように形作られていったのでしょうか。

    (廣瀬)
    私は1958年の生まれで、大学に進学したのが1977年です。中学高校時代というのが今話題になっていますが、中学一年生の冬を迎える頃、浅間山荘事件がずっと生中継されていました。それを引き起こした人達は当時の大学生や大学を出た直後くらいの世代の人達でしたが、1960年代末から70年代初頭には大学生がそういう形で社会への問題提起を行い、中には問題提起のやり方が間違っているというか、周りに対しても自分自身に対しても悲劇を巻き起こしたというか、そういうことが10歳上くらいの世代において顕著にあったわけですね。
    その世代は、戦後民主主義というものが持っている価値やシステムに対して根本的な疑問を提起しようとしていた。率直に言いますと、当時も今も、私はその疑問に対してはまったく共感できないタイプの人間です。逆に言うと、戦後民主主義というものが理想として置いた価値はやっぱり大事だったんじゃないか、それをないがしろにして、なにか良いことが成し遂げられるという幻想に飛びついちゃいけないんじゃないかという感覚を持っていました。
    10歳年上の世代からすると、後からきた世代が先祖返りして……と言われるかもしれないけれど、先ほど丸山眞男の名前を出しましたが、戦後民主主義を大事に思い、目指すべき理念に照らして現状が違うじゃないかという政治評論活動も展開したような、全共闘世代よりもさらに上の戦中・戦後すぐくらいに大学生だった世代の人達の戦後民主主義論を引き継ぎたいと申しますか。引き継ぐというとおこがましいのだけれど、十歳年上の世代の価値観に対して「そうじゃないだろう」と、下の世代からちゃんと社会や政治のありかたについてしっかりと論拠をもって主張していけるような立場になりたい、そういう力を身につけたいという思いで政治学を選んだのです。

    (向山)
    なるほど。私たちの世代だと、9.11を経験しているとか、世の中の大きな動きがあったときに、疑問を呈したりして研究の道に進まれる方が多いのかなと思います。先生もまさに変えていかなければならないというお気持ちを抱かれてその道に入ったのかと拝聴しました。

    イギリス・LSEでの在外研究、新渡戸フェローシップへの期待

    (向山)
    1991年からは新渡戸フェローシップでロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)に行かれるということになっていたわけですが、そもそも在外研究をされることや、新渡戸フェローシップに応募した動機、期待していたことにはどのようなことがあったのでしょうか。

    (廣瀬)
    1980年代後半から、日本にも行政改革――後にNew Public Management(NPM)と呼ばれるようになる、経営主義的な手法を活用した行政改革――が、全面的にとまでは言いませんが、少なくとも主張としては、そういう方向に向けて日本の行政改革をしないと当時の日本のシステムは時代遅れになりつつあるのではないかという議論が強まってきていた時期でした。
    他方で、遠くにサッチャーの行政改革を経験していた、政治システムとしては日本のモデルとなった議院内閣制の国であるイギリスで、かなり急進的な行改が行われていました。ちょうど、新渡戸フェローシップに応募しようとした時期がサッチャー退陣の時期です。1989年暮れの党首選挙で一位が取れなくて、最終的には決選投票に出馬することを断念して、ジョン・メージャーの政権に、選挙を経ず保守党のリーダーの交代という形で変わっていくんですけれども、急進的な改革を自分が先頭になって切り拓くタイプのリーダーから、そのリーダーによって引き上げられてきた極めて調整的であるジョン・メージャーという人が責任者になりました。どうも聞いていると、サッチャー行革の後始末というと語弊があるかもしれませんが、急進的な改革をやった後、経常的に続いていくシステムに落ち着かせていくプロセスが必要になってくると思うのですが、そのプロセスが90年代初頭になると見えてきているという印象をもっていました。
    日本で行革が進まない、もっとやらなくてはという議論がある一方で、過激に行革をやった英国では、ちゃんと機能するシステムを再構築するための調整過程に入っている。ならば、その調整過程を、しっかりと現地で議論、できれば行政の当事者や行政改革に対して発信をしているタイプの行政学者・政治学者と一緒に研究する機会を持ちたい。当時はアメリカに留学するための様々な奨学金はまだあったのですが、イギリスに行くことが可能な社会科学者向けの奨学金はあまりほかに選択肢がなく、しかもかなり手厚い支援をいただける奨学金でしたので、これは可能であれば支援をいただけるとありがたいと。当時すでに法政大学の助教授になっていたのですが、法政大学学内の資金により海外で研究をするチャンスはもう少し順番を待たないと、感覚的にはあと5年くらい待たないといけないタイミングだったんですね。だけど、できるだけ早く、ジョン・メージャー政権に移行して早々の時期ですから、このタイミングで調整過程をリアルタイムで同じ社会の中で見ていたいという思いもありまして、そのタイミングで行くチャンスのある新渡戸フェローに応募したというところです。

    (向山)
    なるほど。当時はアメリカに行く奨学金はあるけれど、なかなか他の地域にはなかったなかで、行政改革の一番ホットなタイミングで行かれたという素晴らしいお話だと感じました。実際に在外研究に行かれて、行政の当事者でしたり、改革の後始末を現地でご覧になっていかがでしたでしょうか。

    (廣瀬)
    ちょっとその前に、行く直前の話をしたいのですが、私が出発したのは1991年8月末なんですね。ちょうど出発を予定していて、飛行機も取っていた出発の一週間前に、クリミア半島にある別荘でゴルバチョフが軟禁されて、クーデター未遂事件が起こった。結果的にはエリツィンがクーデターに反対する運動の先頭に立ってクーデターは未遂に終わり、ゴルバチョフは救出されました。ソ連共産党という存在はこれでほぼ命運を絶たれたのだと思いますが、その後急速に1991年の暮れに向けてソ連邦という枠組みが解体していく。ただ、その1週間後にはソ連の上空を飛んでイギリスに行こうとしているのに、こういうクーデターが起こっていて大丈夫なんだろうかと心配しつつ、戦車の上にエリツィンが立って民衆に向かって演説しているテレビの報道を眺めながら、そんな中での出発でした。今ウクライナでこういう情勢になっていますけど、約30年前はそういう雰囲気の中で出かけて行ったということをちょっと思い出しました。今日の話の流れとはやや離れることなのですけれど。

    広い座標軸を持つ ―― 大きな視点で行政マネジメントの流れを捉える

    (廣瀬)
    現地に到着して、受け入れの窓口になってくださったのが、当時LSEにおられたクリストファー・フッドという方です。NPMという言葉はこの人が作った言葉だといって良いと思います。調べてみたのですけれども、こういう行政改革のトレンドが80年代の初め頃から世界中に広がっていったけれど、民間的なマネジメント手法の導入であるとか、市場的な要素をどう取り入れるか、競争原理を重視し、能率性の向上を重点に目指すということで、一連の行革手法をそういう観点で整理して、これを新しいスタイルの公共経営を目指す行政改革としてグルーピングして、その特徴を表現できるんじゃないかという論文を90年代初頭か89年頃に書いていた人ですね。
    改革の技法・手法を巡る技術的な議論ではなく、大きな視点で、行政のマネジメントの流れの中でどういう特性を持ったことが動いているのかという視点で、イギリスにいてイギリスの行政を見ている人に近いところで研究したいと、まったく面識も紹介してくれる人もいない中で受け入れをお願いするお手紙を書きました。私は当時30代前半に差し掛かった頃で、LSEのリサーチスカラーという研究員の中でもジュニアな方のポストであれば許可をもらえるかと思い応募し、受け入れていただきました。
    この方に紹介していただいて、電気通信庁(Office of Telecommunications)の長官をされていた、会計学の教授からそのポジションに移ったブライアン・カールスバーグ氏に短時間ですがお会いすることができたり、もっと実務的な立場の方にインタビューをさせていただいたりとか、研究上のアレンジというかサポートもしていただきました。電気通信庁は今ではもっとコミュニケーション全体の規制官庁(Office for Communications Data Authorisations)に移り変わっていますけれど、当時はBritish Telecom(以下、「BT」)という、日本でいうと電電公社に当たるような国営の独占通信企業を民営化したのですが、アメリカがAT&Tを地域分割したように分割はせず、巨大独占公営企業を巨大独占民間企業に切り替えたわけですね。それだけでは公正競争が成り立たないので、規制行政で競争原理をしっかり確保しようということで、専門の規制機関である電気通信庁を作ったのです。
    どうしても行政学者も、規制行政のプライスギャッピングはこうだとか、市場の自由化はこうやるんだとか、株式の売却するときの手法はこうだとか、手順を詳細に調べて、イギリスの公営企業の民営化の改革はこうであったというレポートみたいな論文になりがちですが、そこではなく、これって一体何なんだろうという観点で物事を見ることを教えてもらいました。
    この方はまた、もう少し後になってからの本だったと思いますが、中国における儒家と法家、人を見て法を説くのか、法は法でありルールは揺らいではならないという考え方に立つのか、何千年も前から伝統的にあるマネジメントについての普遍的な考え方の違いであり、世の中の歴史の中ではそれが振り子が振れるように揺れ動いてきた。人を見て法を説くことが優勢な時期もあれば、法は法なりで厳密に文字通りの適用をしていくのが公正だということが前面に立つ時代もある。そういったことがなぜ起こるのか、というように非常に普遍的な枠組みで大きな行革の流れを捉える。戦後の行政国家におけるパブリックセクターが膨らみすぎたものに対しての反動としてのNPMという文脈だけでなく、中国の歴史で数千年単位で見たとき、常にこれは揺れ動いてきたんだ、その中のある局面に過ぎないという捉え方を根底に持っている人だったんですね。
    そういう視座を持つことは研究者にとって大事で、自分の中に持っている座標平面がどれくらいちゃんと広いものを捉えているのか。自分なりの座標をもっていると思っていても、実は1979年から80年代にしか通じない、ごく狭い領域の行政改革技法についてのいろんなマッピングということにしか過ぎなかったりする。そういうものを数千年単位の世界史的な規模での現象を座標の上に持ち、自分が焦点を合わせているのはこれくらい狭いところなんだと意識しながら相対化する視点をどこかにキープした中で、でも細かいことをしっかり見ないといけない。行政の研究をやっていると時々思うんですけど、ディテールをイメージでとらえるのではなく、具体的に、この時誰が何をしたらどの手続きはどう動くんですか、そこをどう設計されているかをしっかり押さえることでしか見えない本質はあるなと思っていまして、その両方のバランスを学んだのがこのときの経験の大きなことだったと思っています。

    (向山)
    なるほど。ありがとうございます。NPMから行政改革の大きな流れという意味で、日本の2000年代の新自由主義ですとか、大きな政府や新しい資本主義というものが入っているというそれくらいの振り子だと想像していたんですが、それよりももっと長いスパンで見るような、目から鱗が落ちる思いでした。
    細かいところをしっかりご覧になるということも、近年取り組んでおられたような自治体改革、議会改革みたいなところも自治体に寄り添いながらご覧になっているというところにも通じているのかなと思いながら拝聴していました。

    「それはおとぎ話だ」――日本とイギリスでの「建前」の大きな違い

    (向山)
    在外研究中に、特に印象に残った出来事、多くの方に会われて、大きな意味でも研究者としての基盤を培っておられたと思うんですが、プライベートでも研究をしている過程でも、印象に残っていることがあればお話しいただけますか。

    (廣瀬)
    研究に直接触れるところでいうと、同じ議院内閣制をとっていても、政治と行政の関係についての感覚がある意味180度違うのかと驚いたことがいくつかありました。
    例えば、日本では今回のコロナについてもそうですし、いろんな政策の決定が国民生活を左右するような場面で、説明をする者、記者会見を開いて誰がどう説明するかということでは、イギリスでは記者会見、ニュース番組等でレポーターのインタビューに答えるというのはほとんどの場合政治家の役割です。大臣がすべてはとてもできませんので、イギリスの内閣制度のもとでは大抵の官庁に複数の副大臣、政務官が配置されているとよく言われますけれども、この人達はかなりの部分をスポークスマンとしての役割が占めていますね。
    国民に対して、行政を代表して説明責任を果たせるのは、内閣に属している政治家―国会議員でなければならない。内閣が行政をコントロールしていく、その内閣というのは日本国憲法の場合は民間大臣も入れるわけですが、イギリスの場合は厳密に議員でなければならない。貴族院もありますから厳密にいうと選挙で選ばれたわけでない人も含まれていますが、選挙で選ばれた議会にいる国民の代表が、行政のコントローラーである。だから行政がどう動こうとも責任をとれるのは議会側から行政を動かしている人なんだ。これが政治責任のあり方であり行政責任のあり方であるというのは徹底しているんですね。国会においても大臣、副大臣含めて、国会議員以外は行政の政策に関する質疑に答弁できないわけです。逆に言うと、ちゃんと答弁する力がない人、答弁して国会を通せない人は、議員としては失格ではないけれども、与党の内閣のメンバーあるいは内閣に属して行政をするメンバーとしては失格なので大変厳しいとは思うんですが、国会議員になれば、ほとんどの人に少なくとも一回は副大臣や政務官のポストは回ってきます。人材を実際にポストに据えてみて力がある人かどうか見極めなければならないので合理的な選択なのだと思いますが、一度就けてみて能力がないという判断されると、二度と回って来ないですね。
    日本だと当選何回で政務次官や大臣候補になってくる。大抵当選7回くらい衆議院議員をおやりになると一度は大臣というポストにつけてもらえるようなところがありますよね。そういう甘さがないところがすごいなと。行政をコントロールする責任を国会議員が担っていることに対する厳しさが徹底していることが非常に印象的で。日本の議院内閣制はイギリスがモデルといわれていて、漠然とそうなのだろうと思っていましたが、議院内閣制のロジックが、建前を徹底的に大事にしないと、民主主義の理念や、いろんなことを慣習法として積み上げてきたイギリス憲法体制は守れないんだと徹底して意識されている。
    だから、「本音と建前」という言葉がありますが、日本の政治は、建前と呼んだ途端に、建前だからないがしろにしていいんだ、本当じゃないんだ、という感覚がどこかにあって使っていると思うんですが、イギリスで聞く建前という言葉に何が当てはまるか難しいですが、場合によっては「フェアリーテイル」(fairy tale)と言われることさえもある。童話、おとぎ話ですよね。日本では「それはおとぎ話だよ」と言うと「現実ではないよ」という文脈で語られることが多いですが、イギリスで聞いたときにでてきた文脈は、少なくとも、私が理解した印象でいうと、美しい理念で現実ではないかもしれないけれど、でもおとぎ話だから大事なんだ、なんとか大事にしていかなきゃいけないんだという思いを込めてフェアリーテイルと呼んでいたような気がします。建前とか制度の理念に対するリスペクトがあって、100パーセント現実化できなくても、現実をそれに近づける努力をし続ける覚悟とか姿勢は絶対譲っちゃいけないという裏打ちがある言葉として使われているように思いました。それは政治や行政を研究する者にとっては大事だと思っています。
    近年の議会改革でも、議会ってそうあるべきだよという理念について、「それっておとぎ話だよね」って言い方をする人がいる。日本では、おとぎ話とは一言で切って捨てられる言葉と思って使っているんですよね。私はそう思っていない。イギリスで受け止めてきたフェアリーテイルという言葉をとても重く思っているので、それを大事にしないと世の中だめですよと思うんですね。その考え方を強く身につけることができたのは、フェアリーテイルという言われ方をして、「えっそんなことを言っちゃうんだ」と思いつつも、話を聞いていると全くないがしろにするのではなく、大事だからこそそう表現していることに気が付いたときという驚きが、自分たちが当たり前に前提としているものの捉え方が違うんだ、違う考え方で初めてこのように運営できるのだと感じたので、非常に今もインパクトは残っていると感じています。

    「5センチ10センチの改革」

    (向山)
    冒頭で、研究者の道に入られるときに、戦後民主主義がもっている根本的な価値を信じるというお話があって、理念というものを政治家の方や行政の方が体現するということをされているから成り立っているのを実際に見られたというのは非常に興味深いです。例えば『「議員力」のススメ』(刊行:ぎょうせい)という本を書かれたり、自治体の議会改革に取り組まれてきたことも、民主主義のアクターとしての議員という考えがその時に培われたということはあるのでしょうか。

    (廣瀬)
    あると思います。今お話しした本音・建前ということに関して、政治家の人達は本音の世界にちゃんと足を下ろしていないと活動基盤も維持できないだろうし、理念だけに生きることにより、理念を支持するニッチマーケットさえ押さえて、それで政治家として議席の維持は可能だというポジションを作ってしまえば、理念を自分の支持基盤としてその狭いマーケットで活動し続けるような足場を作ることは不可能ではないですが、それで世の中を、大改革は難しくても5センチ10センチでじわじわ変えていこうとすると、理念特化型マーケットで生きていく人はそれができないんですよね。私は5センチ10センチ型の人を応援するというか、その人達のやっていることの意義を明確に認識し、それを社会にも伝えるというのが研究者としての役割だと思います。参与すること自体に過信してはいけないとは思うのですが、ほかの地域でこんな人達がこんな工夫をしてなかなか難しい状況の中でも少しでも現実を望ましい方向にむけて動かしたよと、交通整理をして情報伝達をするということはできると思うので、そういうことをやるようになりました。根底はやっぱり、フェアリーテイルの大事さです。改革をする人は、「そんなことは理想論だよ」という言い方をされて切り捨てられたり、自分自身もどこかこのままではいけないんじゃないかと思いながらも、現実の壁は厚いから、そうはいっても無理だよねと半ば諦めたり。モヤッとした思いはどこかにありつつ、現実の中で、今年の予算審議はどうするとか、議員としての仕事の中で日々追われますから、これが今できるベストだとは思いながら、変えることは難しいよなと思って、せめて少し鋭い質疑でもできればいいやというところで日々の活動をしている方はたくさんいらっしゃると思うんです。だけど、それでももうちょっとここのところを変えるだけで、3年5年くらいのスパンで見ると、やっぱり質疑の基盤が変わるよ、というようなことについて、少しでもお手伝いができればと思っています。
    理想論型の研究者だとか、政治的なエバンジェリストの中には、そんな生ぬるいことを言っているのでは世の中何も変わらないぞ、がらっと劇的に変えないとだめだとおっしゃる方もたくさんいまして、それは世論受けする場面があるわけですよね。そういう場面があることはわかるけれども、後始末にこんなことが必要でこんなふうになりがちだよというのは、サッチャー行革後のフォローアップに関心をもって研究をしてきた経験値から語ることができます。そうじゃなくて、5センチ10センチを少しずつ積み重ねていって、でも十年経つと、昔ってこんなことを本当にやっていたんだ、駄目だったね、でも今は多少は良くなったねといえるケースがあることをこの15年くらいの経験では割と実感しています。

    (向山)
    救世主を求めてしまうといいますか。急進的な改革の旗がたてばそこについていきたいという気持ちは少なからず出てしまうのかなと思いつつ、サッチャー行革の後始末という点では、何が大変だったと思われますか。また、5センチ10センチの改革のほうが良い結果になるかもしれないと思われたのは、何をご覧になってそう思うようになったのでしょうか。

    イギリスBritish Telecom民営化と「公正競争」の実際

    (廣瀬)
    一つは、通信に関して、実態としてはサッチャー行革とは民営化と規制強化だったのだと思います。直営でやっていた時は規制する必要はないですから。国営企業は国の方針で運営すれば良いので、競争原理がなければ、競争の公平性は必要なく、国民に等しく割安に電気通信サービスを提供するという目的が達成されていれば、事業の効率性に対してあまり注意を払う必然性がなかった。だから、非効率な経営組織で水膨れしたわけです。電話料金も高止まりするし、税から補填すれば国民の税金を使ってしまう国営企業をちゃんと民間企業と同じ厳しい競争市場の中に置いて本人達に努力させれば良いと民営化に舵を切ったものの、電気通信というのはもう一社入ろうとしたら、もう一つ全国に電線ネットワークを作るのか? 社会に二重投資することに意味があるのか? 効率的か? というところにぶつかるわけですね。そうすると、国営企業が作ってきたネットワークを使わせながらも、公正競争らしく見えるものをどうにかしなければならない。ところがどういうルールで回線を開放すれば良いか。競争相手に回線を開放しろといわれた企業が、相手に有利な条件で使わせるわけはないし、効率化のために知恵を絞るよりは、相手をどう邪魔するかに必死になって知恵を絞るわけです。それに対して、会計学者が規制官庁に入っていって、消費者に対する価格だけではなく、回線を使わせるコストについてどこの部分まではコストと認定して請求して良いけれども、ここの部分は駄目だよ、とすごく細かく見ていくようになるわけですね。
    そうすると、通常の民間企業、公開している株式会社が投資家に対して公表するために財務的な情報公開義務を負いますが、そのレベルでは足りないんです。例えば、ローカルな足回り回線を各家庭まで二つの通信会社が競争しあって回線網を作るというのは馬鹿げているので、かつての独占公営企業が作ったものをそのまま使う。また足回り回線を使うとき、例えば3分間何円と請求がいくわけですが、そのコストの中に、イギリスでいうとBTの営業経費のうち、この部分の営業経費は足回り回線のためだから計上しても良いけど、長距離回線のユーザーのための営業になっている部分は、長距離回線で競争する相手から料金を徴収して営業経費に充てたら不公正になっているから駄目だと。となると営業経費に色を付けて細かい財務報告を出させて、この料金にはここまでは計上して良いけど、ここはだめだと官庁が乗り出していってやるんですよね。
    ある意味馬鹿げた、そこまでやらないとできないの? というような。でも理屈を聞くと、それをやらないと確かに公正競争にならない。無理な民営化と競争原理がいかに無理な構造の上に競争原理らしきものが成り立っているかという仕掛けも見出しました。そういうことを通してしかできない改革って、一見シンプルですよね。民営化して市場開放して競争原理のもとで効率化のための努力を、旧独占企業にプレッシャーをかけてやってもらいましょうと。それはそうだけど、当然ながら競争の中で自分たちが一番有利になるように徹底して知恵を絞りますから。それをさせたくないんだったら、戯画的な細かいコントロールが必要になる。それを正確にやろうとしたら、極限までいけば、BTの経理担当の隣に電気通信規制庁の人が座って、これはこっちに計上、これはこっちに計上としないとやらないと、本当は厳密には実現できないようなことを、疑似的になんとか現実と妥協しながらやって、かろうじて競争らしきものを成り立たせている。
    でも実態はどうだったかというと、競争相手がふらふらになって業績が伸びなくて駄目になりそうになったら、価格規制のところでちょっとBTをいじめるんですよ。競争相手が少し息を吹き返す。これで競争相手も市場から退場せずに競争が続いていると調整するしか現実にはなくて。現実がそうなのに、理屈・建前は大事ですからね。公正競争では、この経費は請求して良くてこちらは駄目だとちゃんとやっているという建前も大事だから、自縄自縛みたいな世界に入っていくんですね。

    (向山)
    私自身も実は、商社時代に民営化したインフラの投資というのをやっていまして。カナダの年金基金と一緒に、イギリスのハイスピード1(HS1)の鉄道を買収したりしたんですが、まさにおっしゃる通りでした。民営化して民間に任せようとしつつも、規制当局から様々な条件が細かく決められないと公正な競争ができないというのは本当におっしゃる通りだなと思いました。

    インターネット通信の変化:研究から大学での通信サービス提供の実践へ

    (向山)
    現在はデジタル化や第4次産業革命で、テクノロジーの進化で官と民の関係性に変化が生じざるを得ないような状況もでていると感じています。先生が在外研究されたときは、インターネット通信が勃興してきたタイミングでもあったと認識しているんですが、新しい技術、分野との出会いというのはどのような状況でしたでしょうか。

    (廣瀬)
    在外研究にいた1992年はちょうど米大統領選で、クリントン大統領・ゴア副大統領のペアが当選しました。この二人の主要な構想の中に「情報スーパーハイウェイ」というのが入っていて、当時はインターネットという言葉は使われていませんでしたが、情報通信のデジタル化を推進し、超高速な情報ハイウェイを全米に巡らせるというものでした。クリントン元大統領の一番の主眼は教育の全米格差解消と当時受け止めていましたが、コミュニケーションの構造を全面的に変えるようなインパクトを結果的には持ったと思っています。90年代初頭には、ほとんどの電話回線が、アナログ時代の、それこそベルが発明したような技術の延長上で作られていました。そこのテクノロジーを前提にして、競争条件とか、あるいはローカルな足回り回線と長距離回線の競争をどう組み合わせるか、政策の構造自体がアナログの電話回線をもとに作られていたんですね。だけど、インターネットの技術が今から10年位前にはほぼ電話として使っているものも含めて世代交代を完了しているというくらい変わりました。そうすると競争の構造、インフラの構造そのものが変わるし、この領域では半導体の能力がものすごく急速に発展していきます。アナログの頃って、10年前に電話線を引いたらそのままのインフラが普通に使えるものだったのが、同じ一本の光ファイバーの中に、5年前と今では一桁か二桁違う速度で信号を通せる。ものすごく大量の信号を通せるとなると、一本の線の上にものすごく多数の双方向の通信経路を乗せられるわけですから、コスト構造が全然変わっちゃったわけですね。それに適合していくための様々な課題が浮上しては取り組んでいくということが繰り広げられてきて、テクノロジーが本当に構造を変えることはあるんだなと実感しました。
    それこそ、例えば法政大学では現在、教室や研究室、パブリックスペースのほとんどでWi-Fiが使えて、学生・教職員は大学のインターネットに携帯でもタブレットでもPCでも繋ぐことができる環境ができていますけれど、90年代半ばくらいから15~6年かけてその基礎を作り、そのあとの10年くらいでカバーできていないエリアを潰していくということをやって今日に至っているわけです。かつてであれば通信業者しかできなかったことが、自分のキャンパスの中であれば自前でもできるようになりました。そうすると、90年代初頭にはBTの民営化のあと、まだ当時はアナログ中心だった電気通信の規制を研究し、帰ってきて大学でやり始めると、世代交代したあとの構造の中で、大学自体が構成員にサービスプロバイダーとして通信サービスを提供していくことを、どう合理的に、どう研究教育の目的に適合する形で提供できるか、試行錯誤しながら提供する事業者側の立場にもなるということができました。それはこの領域の政策を研究していく上でも非常に参考になりましたし、新しいテクノロジーにどう対処していけば良いかということが常に政策課題として浮上してくるのですが、それはこの間主要検討委員会で議論していたことだ、とピンときます。その意味では、技術の内幕も、ユーザーサイドのサプライヤーとして自分も関わっているので、割と事業の内幕もある程度は見えるところで規制行政について研究することができるようになりました。それは自分の研究にとっては90年代初頭には意図していなかったのですが、2000年代に入る頃になると、その領域を選択することによって、自分が半ばインサイダーとしてわかっている専門領域のテクノロジーが政策にどう影響するのかを考えるようになりました。それから、選挙で選ぶ国民はアマチュアで専門家ではありませんが、選ばれる国会議員も分野ごとに何かが得意であるとしてもやっぱり専門家ではなく、あくまで国民代表ということが第一義。行政官になると官庁としての専門性は出てくるけれど、特に法律系行政系の人達は技術そのものの専門ではない。事業者の中に技術の専門家がいる。こんな関係性の中で、専門性と民主制というものはどこかで利益相反といいますか相克する場面があると思いますが、そこの調整を、両方を垣間見ていることによって、より深く見られるようになったんじゃないかと自分では考えています。

    情報通信インフラの構築と合意形成――自主自立したままでひとつの「理念」へ

    (向山)
    そうですね。学術的なところから、ユーザー側のサプライヤーとしての立場からより深く政策課題、研究課題にも理解を深められていったということでしょうか。大学の中の情報インフラを整備するということは、今の総長としてのお仕事にも繋がっているでしょうか。

    (廣瀬)
    大学というのはいわゆるヒエラルキー型の組織とも違っていて、理系でいうと研究室一つ一つが独自の研究テーマを持った小企業のようなものだと思っています。文系の場合は一人親方の職人さんの集まりみたいなものです。分野によっては芸術家の集まりみたいなところもある。そういうところだけれども一定の理念でまとまりをもって、そこに入学してくる学生たちに対して、「一人の親方と一人の弟子」という関係性ではなく、大学という場はある程度総合的に、ある程度特定の場に根を下ろして専門的に学んでいく場所ですから、一種の専門家集団の同業者的組合、しかし一つの組織だった学校として、ここで4年間学ぶことによって、いったい何をどう学ぶことができるのかを確保して保証しなければならない。一人一人の研究テーマがバラバラで、通信やインターネットのニーズもバラバラで、あるいは世界に広がったコミュニケーションと大学がどう接するかということについていろんな考えがある中で、それならば納得できるなと構成員がまとまったときに初めて大きな事業とは動くものですから、そういう感覚をもって大学運営をしていくことの大事さがある。法政のような大規模な、伝統的に研究者の自立性自主性が重んじられ、だからこそ法政の魅力があると信じている人達の集団である大学では、そういう合意形成を丁寧にやりながら、理念で一致をしたとき――「法政大学のおとぎ話に照らしたらこうでないといけないよね」ということに多くの人が共感したときに、思いのほか大きく動くこともできるんですね。そういうところをもっと領域的には狭いところで、大学の情報通信インフラを、いつの間にか生活基盤になっていますけど、コンピューター好きの道楽だと思われていた時代から、皆の不可欠なもの、これがなかったらコロナ化を乗り越えらえなかったインフラというところにまで持ってこられた経験は、コロナ禍で総長という役割を引き受けても何らかのことはできるのかなという感触をもつことができたという意味で大きかったと思いますね。

    (向山)
    最初の理念のところから、イギリスでのおとぎ話といったところにきちんと共感を集めていくというところから、また実務的にご経験されたことから、いろんな点がつながって今に至るのだなと大変よくわかるお話だったと思います。

    おわりに――日本の若手研究者に向けてのメッセージ

    この対談を聞いてくださっている方には若い方もいらっしゃると思いますので、日本の若手の研究者に対して望むことや期待をすることがありましたらぜひ教えていただきたいと思います。

    (廣瀬)
    例えば今ウクライナで起こっていることも含めて、これは冷戦後国際秩序ととらえることもできるし、もっと言うと、第二次大戦後の主権国家というもの――主権が尊重され領土が尊重された国家――において、武力による政策目的の達成は国際法秩序の中では完全に違法なんだということが確立されたとも言える。これはもちろん建前です。でも建前だからこそ大事にしないと、世の中の秩序、グローバルな秩序が揺らぎかねない。それに対する恐れと尊重が、部分的には綻びを見せつつ曲がりなりにも大きな構造では維持され、なんとか1945年からでいうと結構長い間保ってきた。だけれど、ここで起こっていることに対して、我々一人一人が個人でできること、今所属している組織ぐらいの単位でできること、あるいは日本という主権国家一つでできることも極めて限られていると思いますけども、ここがどうなっていくかによって、2000年代半ばからのかなり長い時期がどうなっていくか、社会の構造、経済も深くかかわってくるし、どうなっていくかという面で非常に大きなインパクトを持ちうる出来事が今起こっていると思っています。
    振り返ってみれば、1958年生まれの私は、戦後物心ついたころには高度経済成長でした。大学を出て、若手研究者になる頃までがちょうどバブルに向かう時期で、オイルショックもありましたが、常に右肩上がりでした。親の世代は戦争も経験しているし、戦後の厳しい時期だとかそういうものを実体験としてもっています。そこからだんだん、高度成長の中で、多くの国民と同じように、周りも含めて相対的に3年前5年前よりだいぶ豊かになったし、物質的にも様々なものを享受できるようになった。そういうものが続いていくという幻想が、停滞のその後30年を経験して、どうやら風向きが変わってきたぞと感じています。冷戦の終焉というものはありましたけれど、今から振り返れば東西の構造的対立の独特な解消のされ方ではあるけれど、主権国家単位での協調体制と、軍事力というものに対する位置付け、それはむしろ第二次世界大戦を終える頃に確立された原理が、より広い範囲に徹底されるようになったと位置付けても良いんじゃないかと思います。その意味では、安定した構造の上で展開された様々なことを見てきた世代だと今にして思えばそう感じています。
    恐らく今の若手の皆さんは、良いことだけではないと思いますが、もっと大きな、構造的な揺らぎとか、守り切るのか、守れないのか、と問われるような場面を目撃することになるだろうし、結果によっては新しい構造に移行していく長い過渡期であったり、あるいは大きくは壊れなかったとすればその構造がどんなふうに持続可能なのか問われる。私などの世代はかつて大きな構造自体の、フェアリーテイルが否定されるということがない前提で、だけど現実はフェアリーテイルとはかけ離れたところがあるのでそれにどう近づけるのかという問題意識の中でずっと研究してくることができましたけど、フェアリーテイルそのものが根底から揺らぐことがあるかもという場面で、じゃあ自分はどういう立場に立って何を見るのか。そういうことが問われる機会がすぐにくるのか、30年後か50年後かはわかりませんけれども、例えば今大学院で学んでいる20代の若い研究者にとってみると、2000年代の後半は十分現役なわけですよね。2000年代の後半になると、ベテランの研究者として社会に対して何を発信できるか残せるかということを問われるようになっていく。そういう世代的な役回りを担っていくことになると思います。それは自分で選べることではないんだけれど、その中で何ができるか最大限目指すと、やや不謹慎な言い方になりますが、社会を見る社会科学を研究する者としては、特に面白い時代になると思います。この時代、個人の経済生活その他については厳しい面も経験するかもしれない。社会・経済の変動によってはそういうことが起こるかもしれない。けれど、研究する立場からすると、それをリアルタイムに共有しながら見る機会を得たということは、それ自体自分にとっての財産とまでは言えないかもしれないけれど、チャンスとしてぜひ生かしていくくらいの視野と気構えをもって研究を続けていかれると、非常に充実した実感をもって研究ができるんじゃないか。自分として考えを深めたり、深いところまで理解できたりという充実感もあるだろうし、社会の動きと連動することによって、自分の研究が空理空論なのではなく、社会の実態とこう繋がっているんだと否応なく感じながら研究していけるということでもあると思います。そういうことをぜひ大事にしていただければありがたいと思います。

    (向山)
    ありがとうございます。おっしゃる通り、国際秩序の転換点にも立っているんだろうと思いますし、建前とおっしゃったような、自由と民主主義、主権国家に対する今の状況が、長いスパンで考えたときにどういった社会を映していくのか、という座標軸ということについても本日はお伺いすることができました。先生が、社会と繋がっていく実体をもって研究することを非常に重視されて実践されてきたことが伝わってくるインタビューでした。総長になられて大変お忙しい中にお時間いただきありがとうございました。
    日本の高等教育が様々な課題に直面していると思いますが、法政大学がリードしていくべく、先生の総長としてのご活躍をお祈り申し上げております。

    (廣瀬)
    どうもありがとうございます。向山さんのご活躍も期待しています。読者の一人でもありますので(笑)、これからの記事も楽しみにしています。

    (おわり)

    廣瀬 克哉(行政学者/法政大学総長)
    廣瀬克哉1958年奈良県出身。1981年東京大学法学部卒業。同大大学院法学政治学研究科修士課程修了、1987年同大大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学、同年法学博士学位取得。1987年法政大学法学部助教授、1991年~1993年ロンドン大学政治経済学院 行政学部 客員研究員。1995年法政大学法学部教授。1998年~1999年ロンドン大学政治経済学院行政学部訪問研究員。2014年より法政大学常務理事(2017年より副学長兼務)、2021年4月総長就任。専門は行政学・公共政策学・地方自治。
    向山 淳(向山政策ラボ主宰/一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ (API)主任研究員)
    写真:向山淳慶應義塾大学法学部政治学科卒業、ハーバード大学公共政策大学院修了。2006年三菱商事株式会社入社、主に金融分野で海外政府の民営化インフラ資産を対象とした買収や年金運用に携わる。2013年から2015年までカナダ・オンタリオ州公務員年金基金(OMERS)に出向し、戦略投資部門で中小企業再生等に従事。2019年7月に向山政策ラボ開業。2019年9月より独立系シンクタンクAPI主任研究員。
    APIでは、「PEP」政策起業家プラットフォーム プログラム・ディレクター。新型コロナ対応民間臨時調査会のワーキング・メンバーとしてデジタルを中心とした「政策執行力」を検証。テクノロジーの社会実装研究会の事務局として馬田隆明著「未来を実装する」の構想をサポート。国会議員政策担当秘書資格 保有。

    「新渡戸フェローとの対談」動画シリーズ

    国際文化会館70年の歴史の中でも最も特筆すべき事業の一つが「社会科学国際フェローシップ(新渡戸フェローシップ)」です。日本と諸外国の学術交流に先駆的な役割を果たし、国際文化会館創設者たちと所縁のあった新渡戸稲造(1862–1933)にちなみ、国際的に活躍する日本の社会科学者を育成するというビジョンを掲げ、1976年から2008年までの32年間にわたって計170名のフェローを世界20数か国の研究・教育機関に派遣しました。フェローは帰国後、学術をはじめ様々な分野においてめざましい活躍をしています。

    本インタビューシリーズでは、創立70周年記念事業の一環として、何人かの新渡戸フェローの方々に対談の形でお話をうかがいます。第一線で活躍されてきた知的リーダーがどのように形作られてきたか。時にパーソナルな話も含めてお話しいただき、次世代への示唆に溢れる対談シリーズを提供していきます。

    アーカイブス一覧

    【70周年記念シンポジウム】”国際社会において日本が直面する重要な課題––Key Challenges Facing Japan in the International Arena”
    【新渡戸フェローとの対談】#4「ヨーロッパ近代思想研究の意義」(加藤節×河野至恩)
    【国際文化会館 70周年記念プログラム】特別ページ公開

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